yururi-furu’s blog

ゆるりと続けるフルコミ営業

「生きたい」思い(本日妻が亡くなりました⑲)

 

この記事、

・昨日妻が急性白血病になりました① 

・昨日妻が急性白血病になりました② 

・本日妻が亡くなりました

 

本当は、こんなに長く続けるつもりはあ

りませんでした。

病気になった驚きと悲しみ、そしてそん

な中でも頑張っていく妻と、治っていく

様子を伝えたかっただけです。

 

病名が分かったときは、家族みんなが落

ち込みました。でも白血病は治る病気だ

と聞いていた。現に、競泳の池江瑠花

さんは寛解し、オリンピックに出ていた

じゃないか。それが大きな心の支えにな

って、妻も治ると信じていました。


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移植でA型からO型に変わるはずだった

 

「昨日妻が急性白血病になりました①」

のあと、一度違う話しにしたのは、辛い

ことがあったからと書きました。この辛

いことというのは、移植のときに使う免

疫抑制剤のアレルギーで、最悪のケース

が起きるかもしれないと言われたことで

す。

一生懸命治療に向き合い、頑張っている

妻なのに、残酷な運命が待っているかも

しれない。それを僕は知っていて、妻に

伝えてはいけない。何度も泣いたのに、

更に心が潰れそうなことが起きる可能性

が出てきた。

だから書けなくなってしまったんです。

 

以前書きましたが、最初に行った「臍帯

血移植」は、うまくいきませんでした。

80~90%の確率で成功すると言われ

たのに。

ただ幸いなことに、免疫抑制剤の量をコ

トロールしながらやっていただいたお

かげで、最悪なケースにはならなかった

し、アレルギーも出ませんでした。

 

あとになって分かったことが二つ。

一つは、この臍帯血の白血球が 4つしか

合ってなかったこと。へその緒である臍

帯血は、無償で提供されたものを、マイ

ナス 196°で凍結保存されています。

だからたくさんあって、白血球は 6個全

部合うものが使われていると思っていま

した。でも違っていた。だから免疫抑制

剤が必要だったんです。

 

 

もう一つは、このときに少しだけ増えた

白血球。

実はこれ、移植で増えたものではなく、

抗がん剤放射線で壊した妻の造血細胞

が頑張って造ったものでした。

「生きたい」思いが造った白血球です。

 

最後の一時退院(本日妻が亡くなりました⑱)

 

このことは、妻と妻の両親には話しませ

んでした。子供たちと妻の兄弟だけに話

した。

でも話したところで何か変わるわけでは

なく、聞いた全員が覚悟しただけです。

コロナ禍で面会ができない。4人部屋な

ので電話できる時間も制限がある。でき

たことは、LINEの数を増やしただけ。

だからといって治療のことには触れられ

ない。子供の生活や仕事のこと、世間話

しみたいなものしか送れないんです。

 

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七夕の日の病院のごはん

 

移植の前で妻が嫌だったのは、散髪と抜

歯。移植の抗がん剤は最初のものより強

いもので、数日続きます。最後の二日間

は凄く強いものになります。更に移植の

前日に全身に放射線を浴び、骨髄の中の

血を造る細胞を完全に壊してしまう。

このために必ず髪の毛が抜ける。妻は肩

の辺りまで髪を伸ばしていました。その

ぐらいあると、髪が抜け始めたときに大

変なので事前に短くしておきます。この

ときは、通常のショートぐらいでした。

ちょっと落ち込んだ感じです。

 

そして抜歯。

僕と妻は、虫歯があったら抜くものだと

思っていました。たまたま妻は、この入

院前に歯医者に行って治療が終わってい

ました。だから安心していた。

でも違いました。

まったく健康な歯を 4本も抜くというこ

と。理由は、歯茎に微量な膿のあるとこ

ろがあったため。歯が健康でも、歯茎に

膿があると、そこから感染症になること

があるので、抜かなければならない。

このことを聞いた時も、抜歯した後も、

妻は凄く落ち込んで、声をかけられない

ぐらいでした。

 

移植の前には、一時退院させてもらえま

す。無菌室に入ると、1ヶ月半以上は出

てこれない。しかも辛い状態が続き、体

調も今までとは比べられないぐらい悪く

なります。だから担当の H先生が一時退

院に反対したにもかかわらず、移植コー

ディネーターの看護師さんが、強く一時

退院を勧めて、担当医を説得してくれま

した。

 

 

たった 2日半の一時退院でしたが、長男

も帰省して、久しぶりに家族 5人が揃っ

た。一緒に食事をし、本当に楽しそうに

していた妻。

でもこれが最後の自宅での生活でした。

 

最悪のケースも覚悟して下さい(本日妻が亡くなりました⑰)

 

このとき妻は、すでに骨髄バンクに登録

していました。幸いドナーが 6人見つか

った。

そして妻の兄弟も白血球の型を調べまし

たが、残念なことに、兄弟と妻は半分の

3個しか一致しませんでした。

 

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僕のスマホの「お気に入り」画面

 

てっきり骨髄バンクのドナーさんを待つ

ものだと思っていましたが、病院から提

案されたのは「臍帯血移植」です。

主な理由は二つ。一つは妻の健康状態が

少しずつ悪くなってきていたから。もち

ろん本人には伝えていません。骨髄移植

の平均待機期間は約5ヶ月。そこまで待

っていられない。

 

もう一つは年齢です。

骨髄バンクに登録できるのは 54歳まで

です。55歳になるとドナー登録を卒業

しなければならない。つまり骨髄移植は

負担の大きい方法なんです。ドナーさん

全身麻酔をして 3時間かけて 100回

注射し、骨髄を 1リットルも抜かれる。

患者側は 1リットルも移植を受けます。

 

それに比べて臍帯血移植は 25ccだけ。

移植に 3分しかかかりません。逆にそれ

で大丈夫か?という気がする。その臍帯

血もすでに凍結保存したものが、臍帯血

バンクにあります。

 

骨髄移植は患者側にも負担があります。

だから体の組織構成が近い、兄弟に期待

していました。兄弟であれば、移植を受

けられる年齢を超えても移植できる。妻

の弟さんは昨年ギリギリの歳でした。つ

まり、妻と妻のお兄さんはリミット年齢

を過ぎてしまっている。でも結局、白血

球の型が全部は合わず、できなかった。

 

 

僕が病院に一人で呼ばれたのは、移植に

対するリスクの説明でした。

最初の抗がん剤治療のときに使った免疫

抑制剤は移植のときも使う予定のもの。

妻の体に出た赤い発疹は、その免疫抑制

剤のアレルギーだとのことです。つまり

移植の時にその免疫抑制剤を使うと、強

いアレルギー反応が出る可能性が高い。

かといって使わなければ、重篤な事態を

招きます。

使っても使わなくても、非常にリスクが

高い。そして必ず移植はしなければいけ

ない。僕たちに選択肢は無いんです。

 

「奥様に、最悪のケースが起こることも

覚悟してください」

 

僕ひとり病院に呼ばれた(本日妻が亡くなりました⑯)

 

病気が確定してから、数日後に治療が始

まりました。点滴による抗がん剤の治療

です。

 

入院してすぐに妻から電話があった。

「H先生がお父さんに、今日にでも病状

や治療の説明をしたいんだって。病院に

来れなければ、電話でもいいって。お昼

ごろ H先生から直接電話してもらっても

いいかな?」

 

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妻が好きだった無糖レモンティー

 

12時50分に電話がありました。

 

妻の「急性骨髄性白血病」は進行が遅い

タイプで、ビダーザという抗がん剤を主

とした治療を行えば効果が出る可能性が

あり、早い退院も見込めるというもの。

具体的には、ビダーザなどを 7日間連続

して点滴で投与する。これの効果が認め

られれば 1ヶ月後には退院でき、通院治

療に切り替わるとのことでした。この抗

がん剤は、7日間連続投与した後 3週間

休み、また 7日間連続投与するそうで、

それを何度か繰り返す。

 

何も知らない僕は、この病気には骨髄移

植しかないと思っていたので、抗がん剤

投与で通院に切り替われる可能性がある

ことに驚いた。

(すごいな医学の進歩って!)

だって昔は CMで、骨髄バンクに登録して

くださいって必死に訴えていた。今だっ

てテレビやラジオ、ネットの CMが流れ

ていて、やはり難しい病気なんだと思っ

ていました。

こんなものなの?

 

妻も事前に同じ説明を受けていたので、

半信半疑で聞いていたそう。

子供たちや妻の両親、兄弟に連絡する

と、みんなどこか信じ切れていない感じ

です。

治療が始まってからも妻は元気で、病院

の廊下をたくさん歩いて体力が落ちない

ようにできるぐらいでした。

 

でもその抗がん剤は効果がありませんで

した。そして輸血と抗生物質、免疫抑制

剤投与をくり返していると、微熱やだる

さが強く出るようになった。

 

6月中旬に妻から、

「なんか赤いポツポツした発疹がある。

でもあまりかゆくないし何だろう?」

それからその発疹は増えていき、全身に

広がっていった。

 

 

数日後、H先生から僕の携帯に電話があり

ました。

「今日これから病院に来て下さい。セン

バさん一人で」

「奥様には話さないで下さい」

 

妻の日記(本日妻が亡くなりました⑮)

 

2022年4月22日の夕方 6時過ぎ、

病院 13階の血液内科第2面談室で、担

当でない A先生からこの病気と妻の状態

の説明を、僕と妻、長女が受けました。

急性骨髄性白血病だということとその病

気の特徴や症状、治療方法なんかです。

 

白血病について何の知識も無い僕たち。

だからその説明を聞くだけで、質問がで

きない。

何も知らなかった僕は、白血病とは白血

球が増えすぎる病気だと思ってました。

でもまったく違います。妻のかかった急

性骨髄性白血病とは、血液が造れなくな

る病気です。しかもレアケースで、最初

の段階で血液にならなくなって、脂肪に

変わってしまう。

 

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病院の面会用バッジ

 

妻も長女も静かに冷静に聞いていた。と

きどき先生の話を遮るように質問するの

は僕だけです。

 

妻の検査結果と症状は、こんなものでし

た。白血球が通常の 1/6。赤血球は約

1/2。血小板は 1/3。すぐに輸血と抗

生物質を投与しました。

この状態だと、いつ何かに感染してもお

かしくない。風をひくかもしれないし、

新型コロナウイルスもすごくかかりやす

い。怪我をしたら血が止まらない可能性

が非常に高い。そして赤血球が半分しか

ないから酸素が足りず、すぐに息切れし

てしまうし頭痛も頻繁におきる。

 

お医者さんからは、

「よくこの状態でガマンできましたね」

と言われるぐらいです。

最初に行ったクリニックで、血圧の上の

数値が 190を超えていたのもしかたが

ありません。妻は普通 90台しかなく血

圧が低い方ですが、赤血球が半分しかな

いために酸素が足りず、心臓がすごく頑

張って少ない血液を循環させてくれてい

ました。だから血圧が異常に高かった。

 

落ち込んだ様子の妻でしたが、なんとか

頑張って早く治して退院できるようにす

ると言いました。家族みんなと元の生活

ができるようにすると、気丈に話した。

 

 

妻が亡くなったあとで、スマホのメモに

日記が残っていたのを見つけました。

 

「4月24日

 なんでこんなことになるの

 こわい、こわいよ  死んじゃうかも

 助けて」

 

泣き崩れる長女(本日妻が亡くなりました⑭)

 

妻にちょっとだけ体調の不良が表れたの

は、2022年3月でした。

それまでは何ともない。

でもこのころから仕事や外出中に頭が痛

くなったり、呼吸が乱れて動悸がしてき

た。それでも家に帰ると治ってしまう。

だから病院に行くのは大げさな感じがし

て、ためらってしまいました。

 

2月17日には、僕と伊豆大島の椿祭り

ツアーに行っている。その後に長女とデ

イズニーシーに行ってます。そして 3月

にもライブや展覧会、食事なんかに出か

けてるし、最初のクリニックに行った前

の日も、都内に遊びに行っています。だ

からその後に頭痛や息切れがひどくなっ

てきても、そんなに重い病気だとは思っ

ていませんでした。たぶん更年期障害

ゃないかと。

 

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伊豆大島の椿

 

2022年4月21日にクリニックか

ら紹介された大きな病院へ一人で行っ

た妻。そこで何時間も検査をした結果

は、急性白血病の疑いが強いので、専

門の病院で再検査が必要ということ。

紹介された 3つの病院から、長女の友

達が何人か看護師さんをしている市立

病院を選びました。

 

翌日の 22日、有給休暇を取って付き

添いをしてくれた長女と一緒にその病

院へ行きました。再検査を受けた結果

を最初に聞かされたのは長女です。一

人で別室に呼ばれて病名を告知されま

した。

急性骨髄性白血病にほぼ間違いがな

いので、このまま入院になります」

 

すぐに僕の携帯に、長女から連絡が入

りました。少し暗い感じでしたが落ち

着いた話し方で病名を告げた。更に正

確な説明のため夕方に僕と妻、そして

長女の 3人で担当医と会うことになり

ました。

意外だったのは、最初に病気の告知を

受けるという辛い役目をさせてしまっ

た長女が冷静だったこと。朝から病院

に付き添って、説明が終わる 19時過

ぎまで病院にいてくれた。

 

 

長女と二人で病院から帰るとき

「疲れたね、大丈夫」と僕が聞くと、

「うん、平気」と気丈に答える。

 

でも妻が亡くなった後で、本当のことを

教えてくれました。

病名を聞いたあと、病院の待合室のソフ

ァーで、ずっと号泣していたことを。

 

幸せな時間(本日妻が亡くなりました⑬)

 

1月3日の午後、五霊神社に初詣に行き

ました。厄除けのお守りを授けてもらっ

て、長女と次男と一緒におみくじを引い

た。吉や小吉だった二人と違い僕のだけ

「凶」。久しぶりなのでびっくり。

ちょっと嫌な感じです。

 

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第四十六番 凶

 

大変な病気のなかでも、いくつか幸せを

感じた時がありました。それを先に書き

ます。

 

10月17日の月曜日、僕は一人で妻の

面会に来ていました。病気が治り明日か

ら一般病棟へ移るという日。

でも妻の状態が悪く、看護師さんと相談

した結果、この日はできるだけ長い時間

病院にいることになりました。

 

17時を少し過ぎたころ、妻がうとうと

し始めた。夜はまったく眠れなくなって

いたんですが、僕が面会に来ると安心し

てくれて、落ち着いたり眠そうにしたり

する。

「寝たほうがいいよ」と僕が言うと、妻

は駄々をこねる。そう、この日はもう一

人の妻。子どもに返った妻です。

でもあまりに眠そうだったので、もう一

度「寝たほうがいいよ」と言うと妻は、

「だって寝たら帰っちゃうんでしょ?」

そう言って寝ようとしない。瞼がくっつ

きそうなのに。

妻もさすがに起きているのは無理だと思

ったのか「じゃあ、子守歌を歌って」と

ねだってきます。無菌室前の廊下は誰も

いません。しかしさすがに恥ずかしい。

僕が困った顔をしていると、「だったら

100数えて。そしたら許してあげる」

 

「いいち、にいい、さあん」と数え始め

たら、「だめだよ、だめ。それじゃ早す

ぎて眠れない」

「ああゴメン。最初から行くね。いいい

いち、にいいいい、さあああん・・・」

 

たった 8まで数えたところで妻は眠った

みたいです。内線電話ごしに寝息が聞こ

えてきました。僕のほうを向いたまま子

供のような寝顔をしてる。

もう眠っていましたが、ちゃんと約束通

りにゆっくりと 100まで数えました。

間接的に夕陽が射し込んでくる。そんな

中で妻を見つめていた幸せな時間。

 

 

(明日一般病棟に移ったら、あと 2週間

ぐらいで退院できるから頑張ろう)と心

の中で話しかけました。

僕は知らなかった。妻の命が尽きるまで

あと9日と13時間だということを。

 

これから書こうと思うもの(本日妻が亡くなりました⑫)

 

今は、1月2日の午前3時。

昨日は早めに寝てさっき起きたので、見

た夢は初夢でした。

家族 5人で旅行している夢。どこか海辺

の市場でお土産を選んでいる夢です。妻

も一緒ににこにこしながらお土産を探し

ている。こういうときはいつもすぐ横に

いたのに、なぜか少し離れたところで一

人でお土産を見ている妻。僕が近くに行

こうとすると歩き出す。ゆっくりと追い

かけていっても近づけない。穏やかな表

情をしているけれど、どこか寂しそう。

やっと妻のそばに行けたところで目が覚

めました。

 

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2023年 九十九里浜の初日の出

 

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長女が作ってくれたお雑煮

 

これから書こうとするものは、ほとんど

決まっています。それはこんなこと。

 

・病院のソファーで泣き崩れる長女

・4月24日から始まった妻の日記

・僕一人が病院に呼ばれた

・二度目の移植

・9月3日で途絶えた日記

・9月4日、来なくなったLINE

・妻が変わっていく

・耳が聞こえない、目が見えない

・手の震え

・せん妄?、うつ?、認知症

・お父さんは頭がいいね

・二人の妻

・お父さんは泣き虫

・お父さん「泣かないで」

・妻との面会の後、嘔吐する僕

・小さくなった妻

・面会の日は食事できない僕

・血小板だけ戻らない

・忘れていた命に関わる二つのこと

ガリガリ君

・僕がたくさん泣いた理由

・無菌室で眠れずに天井を見つめる妻

・10月17日、「死」を告げる妻

・10月17日、15階の展望室

・10月17日、面会時間は 5時間

・10月17日、幸せな時間

・この病気の本当に怖いところ

・子どもたちに連絡

・10月18日、一般病棟へ

・10月23日、家族全員集まった

・10月24日、僕と妻の時間

・10月26日、大切な大切なこと

・10月27日、朝6時1分の電話

・こんなにいい天気、世の中は同じ

スマホにあった日記と遺言

・葬儀の話し

・友達や知人、関係者

・実際にかかったお金の話し

・手続きや申請に関すること

 

 

この中で 10月17日と26日が、大き

なターニングポイントでした。

10月17日の「幸せな時間」だけを先

に書きます。

 

悪い夢(本日妻が亡くなりました⑪)

 

12月19日 月曜日の午後、久しぶりに

五霊神社にお参りに行きました。長女と

二人でです。

しばらくお参りしていなかったのは、忌

明けを待っていたから。人が亡くなって

から 49日経つと忌が明けます。詳しい

ことは省きますが、神社のお参りは、忌

明けまでは行うことができません。

この日はお礼と報告のためにお参りしま

した。妻の白血病を治していただいたお

礼を伝えるため。そして本当に残念なこ

とですが、病気が治ったあとに妻が亡く

なってしまったことの報告です。

 

神社さんによっては、喪中の 1年間もお

参りできないところがあるそうです。


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久しぶりの五霊神社

 

僕はよく夢を見ます。正確に言えば、見

た夢を覚えているほう。でも見た夢のこ

とをあまり話したりはしないようにして

いる。だって夢は、眠っている間に脳が

記憶の整理をしているだけだから。そん

なのを聞かされても迷惑なはず。

 

不思議なことに 10年ぐらい前から、変

な夢を何度も何度も見るようになりまし

た。妻には一度も話さなかった夢。それ

は妻と旅行をしている夢です。その旅行

中に、僕たちが乗ったバスが必ずフェリ

ー乗り場に到着する。曇り空で風が強い

夕方。乗船券を買おうとすると、売り場

にいる暗い表情の女性二人はうつむいた

まま声を揃えて、

「奥様は船に乗ることができません」と

言ってくる。しかたなく僕一人がフェリ

ーに乗って出航するというもの。

その夢を 10年ぐらい前から見始め、こ

こ数年は月に2~3回、更に今年になっ

てからは毎週見るようになりました。別

に夢占いを信じてたり、夢を気にしたり

するほうではないんですが、あまりに繰

り返し見るために、7~8年前から妻と

いる時間をたくさんつくるようにしまし

た。

なんとなく時間に限りがあるような気が

して、一緒にいたいと思ったからです。

 

 

夢を気にしたり何か根拠があったわけで

はないんですが、僕は自分の寿命があま

り長くないかもしれないと思っていた。

でも、それは僕ではありませんでした。

 

妻が亡くなってから聴いている曲(本日妻が亡くなりました⑩)

 

やはりまだまだ辛くて、なかなか記事が

進まない。

12月の記事は三つめです。実はまった

く記事を書いていないわけではなく、少

し書いては止めたり、書きあがったもの

を全部消してしまったりしてました。

本当に伝えなければいけないところが、

リアル過ぎて書くのが難しい。


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妻と行く予定だった「東京ドイツ村

 

妻が亡くなった日の夜は、一人で音楽を

聴いていました。妻が夜眠れなくて聴い

ていた「おやすみジブリ&ディズニー・

ピアノメドレー」。

妻は寝つきがすごくいい人でした。布団

に入ったら 1分もたたずに眠ってしまい

ます。それなのにこの病気の治療の、薬

やストレス、せん妄と軽いうつ状態で、

夜はまったく眠れなくなってしまった。

だからなんとかしようと、こういった音

楽を一人で無菌室で聴いたようです。

それを思いながら僕もその時間を共有し

ようとして同じ曲を聴いてみましたが、

無理でした。

1曲目から涙があふれて嗚咽し、リビン

グの床にへたり込んでしまった。力が入

らず立ち上がることができない。心が押

しつぶされそうになり、呼吸ができなく

なってしまう。

十数年ぶりに飲んでみようと思ったワイ

ンの入ったグラスを倒したのにも気がつ

かず、足の指に冷たい感覚があって初め

てこぼれたワインだと分かりました。

結局 2曲目で聴くのをやめてしまった。

そして一晩中眠れずに、YOU TUBUの見

ていました。ただ何を見ていたのかの記

憶が無く、気づいたら朝になっていた。

 

妻が亡くなってから、スターダストレビ

ューさんの「木蓮の涙」をよく聴いてい

ます。これは大切な人が亡くなったのを

偲ぶ歌です。もともと好きだったんです

が、今回は心に刺さって離れない。

そしてそれに関連する動画や映画を見て

から、ずっと聴き続けたい歌が 9曲でき

ました。

 

 

1.himawari Mr.Children

2.ラストシーン いきものがかり

3.オレンジ 7!!

4.木蓮の涙 スターダストレビュー

5.Hellow、Again~ JUJU

6.Lemon 米津玄師

7.君に捧げるlove song 浜田省吾

8.瞳をとじて 平井堅

9.奏 スキマスイッチ

10.勿忘草 高橋優

 

お仏壇が届きました(本日妻が亡くなりました⑨)

 

12月19日の午後、宅配便でお仏壇が

届きました。

14号という大きさで、40cmぐらいの

小さなものです。妻の使っていたドレッ

サーの上に置くため、コンパクトで明る

い木目の色にしました。

 

仏壇を買うのは 2回目です。

初めて買ったのは、7年前に父が 84歳

で亡くなったとき。でもその時は、ほと

んどを弟たちが決めてくれました。父の

姉がお金を出してくれたこともあり、こ

れぞ「仏壇」、というような仏壇です。

あとで他の親戚に、立派すぎないかと言

われたようなもの。


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妻のお仏壇

 

今回の妻のお仏壇は、小さくてシンプル

なものにしようと思っていました。妻が

どんなものを望んでいたのかは知りませ

ん。だって亡くなるなんて、誰も思って

いなかったから。それは多分、本人が一

番思っていたはずです。

白血病が治って一般病棟に移り、あとも

う少し、そう、あと 1週間あるいは遅く

ても 2週間ぐらいで退院できるはずだっ

たから。妻ももう少しで退院だからと、

なんとか気力を振り絞って最後のリハビ

リを頑張っていました。

 

それなのに・・・・・。

 

妻が亡くなった次の日に、品川に住む弟

が来てくれた。弟は父が亡くなったとき

にいろいろ調べ、仏具や仏教に詳しくな

っていました。だから今回はすごく頼り

になります。僕はそういったことに疎い

し、こんなことになるとは思っていなか

ったので、ただ茫然としていた感じ。

亡くなった日から葬儀の日まで妻を預か

っていただいた戸塚の「ほうさい殿」さ

んで妻と会ったあと、戸塚の「お仏壇の

長谷川」さんに弟についてきてもらい、

教わりながらお店の人の話を聞き、仏具

を少し買いました。お仏壇はまったくイ

メージが沸かなかったのですが、弟が勧

めたのは、「マンションだから小さいの

で、明るい色、家具に合うものがいい」

といったもの。

 

 

結局、他のお店もいくつか見て決めまし

た。長女が気に入った、一番シンプルで

落ち着いた「ニトリ」さんのもの。

ニトリさんでは、お仏壇も扱っていたん

です。

 

49日法要(本日妻が亡くなりました⑧)

 

妻の病気の「急性骨髄性白血病」が起き

る確率は、10万人に4~5人。そして

妻の弟さんの病気である「横紋筋肉腫」

が大人に起きる確率は、100万人にた

った1人か2人。

これが姉弟に続けて起きてしまった。そ

の確率は、信じられない程低いはず。な

のに立て続けに起きてしまった。それは

あまりにも奇妙でおかしい。

 

更に弟さんが病気の告知を受けたのが、

10月26日。そして妻の病気が治って

退院準備のリハビルをしていた一般病棟

で、急に亡くなってしまったのはその翌

日の 10月27日の朝です。


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合掌の郷さん

 

昨日、12月11日は妻の 49日法要を

行いました。

場所は、横浜市戸塚にある「合掌の郷」

さん。親族10人ちょっとだけの慎まし

い49日法要。僧侶様は葬儀の時にもお

願いした山梨県笛吹市にある小さなお寺

の「石雲寺」さん。

 

今回は納骨をしませんでした。

それは僕の気持ちの整理がつかなくて、

まだ遺骨を家に置いておきたいから。そ

れと、自分が喪主となって行う 49日法

要について何も知らなかったため、準備

をしていなかったからです。

 

7年前に亡くなった僕の父。そのときも

喪主をやったのですが、場所が青森県

ので横浜とは風習が違いました。父親の

葬儀のときは、お葬式と初七日、そして

49日法要までを一緒に行いました。青

森県では多いケース。だからその次の法

要は 一周忌です。納骨のやり方もそうで

すが、東北や北海道の一部では少し他と

は違うのかもしれません。

そのために、初めて喪主として 49日を

やりました。まったく分からないことだ

らけで、ネットで調べる毎日。ご住職様

は、葬儀の時に白木の位牌を授けていた

だいた「石雲寺」さんでいいのでしょう

が、場所をどこにお願いするのかについ

ても知識が無い。

 

 

結局、妻の父が約20年前に準備してあ

ったお墓がある「合掌の郷」さんのホー

ルを予約しました。

まさかそこのお墓に、一番最初に妻が入

ることになるとは、誰も思わずにいたは

ずです。

 

何かがおきている(本日妻が亡くなりました⑦)

 

溜息しか出ない。

 

妻が亡くなった後は涙があふれることが

多く、何を見ても悲しく、辛く、気持ち

が落ちていってしまった。だけど今は、

溜息ばかりついている。

 

(なんで死んでしまったんだろう)

(何かもっとできなかったのかな)

(きっと気づいてあげられなかった)

そんなことを考える度にため息が出て、

それが止まらない・・・。

 

 

11月21日に本位牌を受け取り、23

日には仏具を揃え、翌日やっと喪中ハガ

キを書き終えた他は、なにもやる気が起

きないで寝てばかりいる。

本当はこの記事で、白血病と闘っている

人や家族、その友人知人のために、妻や

僕、子どもたち、妻の両親と兄弟が経験

したものと、そこで考えたことを伝えた

いはずなのが、まだあまりに鮮明で細か

いところまで思い出せてしまうので、逆

に書けない、手が止まってしまう。

早く伝えたいのに・・・。


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昨日 11月27日は、妻の初めての月命

日でした。早いもので、妻が亡くなって

から1ヶ月が経ちます。

自宅のドレッサーに置いた遺骨、白木の

位牌、花、そして葬儀のときにも飾った

遺影。嬉しそうな顔をしている遺影。こ

の写真を撮ったときは、すごく幸せなと

きだったから、優しくて嬉しそうな顔を

している。ちょうど 1年前、長男がお嫁

さんになる人を初めて連れてきて、みん

なで食事をしに行ったときの写真です。

 

何人かが手を合わせに来てくれました。

その中で、葬儀の日に体調が悪くて参加

できなかった妻の弟さんの奥さんと高校

生の息子さんも来てくれた。

遺影に手を合わせ、葬儀当日来れなかっ

た親族たちから預かった香典をたくさん

渡されたあとに、1通の封筒。

事前に、当日渡したい手紙があると言わ

れていたもの。今日も弟さんが来れなか

ったし、今度行う 49日の法要にも参加

できないと言っている。そういえば妻が

亡くなったときには、松葉杖をして左足

をかばっていた。

 

 

手紙の中は弟さんの病気のこと。

妻が亡くなる前の日に告知を受けたその

病気は「横紋筋肉腫」。

大人では 100万人に1人か2人しかか

からない筋肉の癌。

そのステージは、4でした。

 

答え(本日妻が亡くなりました⑥)

 

最初に「答え」を書きます。

 

一番伝えたいことは、この病気になった

としても、すぐに亡くなったりすること

は少ないこと。病気になってからよほど

時間がたって病院に行くなんかの、手遅

れにならない限りは、対処できる可能性

がかなりあると思います。

 

だから泣かないでほしい。

 

僕たちもそうだったけれど、たぶん病名

を告げられたときは何も知らないために

不安で、焦り、絶望し、先のことが考え

られなくなり、「死」を身近に感じてし

まう。

仕事を長く休まなければならなく、とき

には辞めなければいけないこともある。

今までと違う日常が待っている。だけど

最悪でも「生きていれば」何とかなる。

そして、大体の人は何とかなっている。

決して「絶望」しないで。

 

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青森県八戸市の「櫛引八幡宮ひょうたんのお守り

 

それから、「二つの後悔」。

一つは、子どもたちが白血球の型の検査

を希望したのに受けさせなかったこと。

子供たちは親の白血球を受け継いでいる

から、必要な 6個の型のうち 3個は合う

はず。だからもしかしたら、4個や5個

が合致する可能性もあった。確率は低く

なるけれども、6個全部が合う可能性さ

えあった。

骨髄移植しか知らなかった僕と妻は、ド

ナーになった場合の後遺症のことが心配

で、まだ 20代の子どもたちに、ドナー

になってほしいとは思わなかった。特に

妻は、自分のために子どもたちの将来が

脅かされる可能性があるのには絶対に反

対で、もしも白血球の型が 6個全部合っ

たとしても、移植を拒むと言って譲らな

い。それを説得できるだけの「覚悟」が

僕には足りなくて、可能性にチャレンジ

することをしなかった。

 

二つ目の後悔は、移植の方法。

治療や移植に関する知識も無く、もっと

も患者にリスクや負担が少ない「臍帯血

移植」を選択したこと。

病院側がこれを勧めるのは当然で、総合

的に判断するとこれしかない。だけどこ

の移植で治る可能性は、80~90%。

他の移植のほうが治る可能性が高いのを

知らなかった。

 

人の命がかかるときに、100%に近い

成功確率でない治療を選んだことで、妻

を苦しめてしまった。

 

二つの後悔とサイドストーリー(本日妻が亡くなりました⑤)

 

ここ数回のブログの日にちが空いていて

バラバラな感じがあるのは、葬儀の予定

があったり、気持ちの整理ができていな

かったため。

 

実は今回のブログでは、書きたいこと。

書きたいけれど書けないこと。書きたく

ないこと。書きたくないけれど、書いた

ほうがいいことがありました。

そしてこの一番恐れていた結果になって

しまったために、書きたくないけれど、

書いたほうがいいと思うことが出てきま

した。


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11月11日 ベランダから見えた月

 

僕には、大きな二つの後悔があります。

その時は、今よりももっと知識がなく、

分からなかったり、判断できなかった。

それを書いたほうがいい。

別に、病院やお医者さんに何か言いたい

訳ではありません。そちらには感謝して

います。本当に一生懸命で、よくやって

いただいたと思っている。

 

妻が亡くなってから分かったことがあり

ました。

妻の兄弟が妻から聞いていたこと。子ど

もたちが思っていたこと。

そして妻自身の思いです。

 

妻の思いは、亡くなった次の日の荷物整

理をしていたことで分かりました。

・長女が妻にプレゼントしたノート。そ

こに書き留められていた「言葉たち」

スマホに残されていた日記

・紙片に残されていた走り書きの「ライ

ンを見て」

その「ラインを見て」が意味していたス

マホの中のメモ。そこには妻が何度も書

き直したと思われる「思い」が2通残さ

れていました。

 

そして、今まで書くことができなかった

大切なこと。「造血幹細胞移植」のカウ

ンセリング・ブックに書いていなかった

し、病院から事前説明もなかった病状。

しかしそれはしょうがない部分が多い。

なぜなら、あまりに多くの副作用や合併

症なんかがあって、全部は説明しきれな

いし、あまり説明しすぎると、患者や家

族を必要以上に不安にさせてしまうから

なんだと思います。

 

妻の場合は、Mゼロという稀なケースで

した。芽球という血液になるための細胞

が、成長することなく最初から脂肪に変

わっていた。

 

 

その辺りから今までの話を補完して、書

けなかったことを加え、この病気と闘っ

ている人たちに役に立つかもしれないこ

とを伝えたいと思います。