キングでは、以前妻と来た時のことを子
供たちに聞かれたので、一つ一つ思い出
しながら話して歩きました。
最初にバスを降りた妻が、大正池の中の
枯れた立木越しに見えた穂高岳を見て、
その雄大さに、しばらく見とれていたこ
と。田代橋そばの案内板の椅子に腰かけ
てお菓子を食べていたことや、河童橋で
交わした会話なんか。
6月10日は、高山駅近くのホテルに泊
まって、食事の後に温泉に入ったり、マ
ッサージを頼んだりしながら、夜遅くま
で妻の思い出をみんなで話しました。本
当に一緒に来たかった。連れてきたかっ
たんです。
飛騨高山
妻が無菌室に入院していたときは、まだ
コロナ禍だったので、一般病棟は面会が
禁止されていました。ただし無菌室は、
面会用の通路が隔離されていることと、
無菌室とは厚いガラスで仕切られて、感
染の可能性が無いために面会が許されて
いた。
僕が無菌室用の内線電話で妻に話しかけ
ている途中で、妻はハッと気づいたよう
な夢からさめたような顔して
「私はいま、お父さんと何を話していた
んだっけ?」
幸いなことに、さっきまでの別な人格は
どこかに消えて、許しを懇願したことも
覚えていないようでした。
「今日の体調とか、ご飯のことだよ」と
僕が答えると
「そうだ、ご飯を食べなくちゃ」とベッ
ドに付いている移動式のテーブルを自分
のほうに引き寄せて、テーブルの上のト
レイのお茶碗と箸を手にした。
この時点で、無菌室に入院してから、も
う 2ヶ月以上経っています。そしてその
間はほとんど何も食べていません。抗が
ん剤や放射線のせいで食欲が無くなった
ままです。1日に 500mlのペットボト
ルの水 1本飲む以外は、ほぼ点滴だけ。
でも、そろそろ食べられるはずなので、
この日から食事を出してもらいました。
本当は食欲が無くて食べたくない妻は、
お箸の先にお米をほんの 10粒ぐらいだ
けつまんで、やっと口に入れた。
どこか遠くの一点をじっと見つめて
「食べないとお父さんに怒られちゃう」