yururi-furu’s blog

ゆるりと続けるフルコミ営業

温かい手と冷たくなっていく手(本日妻が亡くなりました㊻/㊿)

 

少し前に次男が引っ越しました。

次男は、大学を卒業したら家を出たいと

思っていた。ただ妻の病気のことがあっ

たので、それを先延ばしにしてました。

僕たちの家は横浜にある 3LDKマンショ

ンです。子どもたちが小さいときはよか

ったのですが、大人になると手狭になっ

てきた。でもそれも今考えると、ほんの

少しの期間でした。長男が結婚して引っ

越し、妻が亡くなり、次男が一人暮らし

を始めた。あんなに狭いと思ってたマン

ションが、今では変に広く感じる。僕と

長女と、仏壇の中の妻だけの 3人になっ

てしまいました。

 

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昨日の妻の状態と病院からの早朝の電話

は、いいことであるはずがありません。

その電話は当直の医師からのもので、

(妻の病状が急変したので、今すぐ病院

に来られないか)というものでした。急

いで長女を起こし、長男と次男、妻の両

親と兄弟に連絡をしながら車で病院へ向

かった。

 

よく晴れた風ひとつない朝。信号待ちを

しているサラリーマン。多分ほとんどの

人たちは昨日と同じような朝を迎えて、

代わり映えのない一日が始まっている。

だけど、僕たちだけが違う世界にいるよ

うな感じでした。

 

幸いなことに横浜新道と首都高速は空い

ていて、6時45分には病室に入ること

ができました。

 

病室には 5人のお医者さんと 4人の看

護師さんがいて、一人のお医者さんが妻

に心臓マッサージをしていた。妻はぐっ

たりとした様子で、何の反応もしていな

いみたいでした。

僕と長女は面談室に呼ばれて、当直のお

医者さんから状況の説明を受けました。

それによると、5時45分ごろに妻の病

室から血圧の低下を警告するアラームが

鳴り、看護師さんが駆け付けると、すで

に心肺停止の状態だったそうです。おそ

らく喉に血液が詰まったとのこと。

他の医師たちを呼び、心臓マッサージや

酸素を送る等の手当てを行い心臓が動き

始めた。心臓が止まっていた時間はそん

なに長い時間ではなかったと思われるの

で、また動きだしたという説明でした。

 

ただ、次の言葉が続きました。

「もう、奥様の意識が戻ることはありま

せん」

心臓が止まったのは短い時間のようでし

たが、それでも致命的な時間だったとい

うことです。

 

 

病室に戻った僕と長女は、妻の名前を呼

びながら妻の手を握りました。

たった 11時間前に握っていた妻の温か

い手。その手はもう温かさを失い始めて

いました。感覚的には普通の半分ぐらい

の温度。

そして更に、冷たくなっていきました。

 

朝 6時1分の電話(本日妻が亡くなりました㊺/㊿)

 

2023年10月21日、妻の一周忌法

要を行いました。

場所は、お墓のある東戸塚の霊園。親族

だけの小さな法要です。でもまだ妻を納

骨していません。それは、初めて行った

ときの夜の霊園の印象があったから。あ

たり前のことですが、霊園の中には外灯

がありません。夜に来る人がいないため

です。でも、そのあまりの真っ暗さに驚

き心配になってしまいました。

 

怖がり屋だった妻。その妻をこの暗い中

に一人で置いておきたくない。だから納

骨をためらってしまっています。


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東戸塚の霊園と温石さんのお弁当

 


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この日 2022年10月26日。明日は

次男の 24回めの誕生日です。

元気になってきた妻ですが、まだ出来な

いこともある。面会に行くと、妻にお願

いをされました。

妻のスマホには、僕と長男が渡したお守

り、そして横浜御嶽神社で授かったお守

りがついています。それが心拍と血圧な

んかを計るコードや点滴のチューブにか

らまっている。それをほどいてほしいと

いうことでした。

そんなに難しい絡まり方ではなかったん

ですが、今の妻には簡単ではなかったみ

たいです。

 

ほどきながら妻と話していると、いつも

と少し違う感じがした。何か言いたげな

様子です。

聞いてみると、ためらいながら妻は

「今日はずっとそばにいて。帰らないで

ほしいの」と答えた。そして

「なにかおかしい。体の中がいつもと違

う。どこかが変な感じがするの」

僕の手を強く握りしめてきました。

 

どこか痛いとか気持ち悪いとかがあるの

かと聞いても、分からないと答える。で

も何かおかしいと訴え続けてきます。

同じことを看護師さんにも話してあった

ようですが、特に変わったところが無か

ったため、明日担当の H先生に診てもら

うことになりました。

でも気になったのは、妻が僕の手を握っ

たまま離さなかったこと。人前で僕の手

を握ったことなんか無い妻。その妻が、

僕が病室から出るまでずっと手を離さな

かった。

 

面会時間が終わった帰り際に病室を振り

返ると、妻はうつむいていた。いつもは

僕が見えなくなるまでこっちを見て、手

を振るのに。

僕が手を振ったのに、ずっと下を向いた

ままでした。

今までこんなことはなかった。

 

 

家に着いて何気なく夜空を見上げると、

まばらな黒い雲の間から、月の明かりが

漏れていて、それが何故かすごく気にな

りました。

この日は変な疲れが出て、早々と眠って

しまった。

 

そして翌日、2022年10月27日。

朝 6時1分に僕のスマホが鳴った。そこ

には表示されていたのは、妻が入院して

いる病院の名前でした。

 

今日は帰らないでほしい・・・(本日妻が亡くなりました㊹/㊿)

今から 2ヶ月ほど前に、病院から手紙が

届きました。

妻が亡くなってから既に 10ヶ月近く経っ

ています。何だろうと思い封筒を開けて

みると「感謝の集い」と書いてありまし

た。読んでみると「慰霊祭」とのこと。

これは、病院で治療を受けたにもかかわ

らず亡くなった患者さんで、本人または

その遺族が、これからの人のために、そ

して亡くなった本人の正確な死因を確定

するために行う病理解剖に協力したこと

に対する感謝と霊を慰めるための慰霊祭

だそうです。

希望をすれば芳名録に名前を載せ、慰祭

祭のときに名前を読み上げる。参加でき

るのは、もちろん遺族だけ。

僕は迷った末に、芳名録に載せて名前を

読み上げてもらうことにしました。ただ

また辛くなりそうなので、参加だけ見送

った。法事や節目の大切さは分かるので

すが、その都度気持ちが大きく揺れてし

まう。

だから法事以外への参加は、精神的な負

担を考えて見送ることにしたんです。


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2022年10月26日の月と雲


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35年ぶりに描いたイラストは下手になってた

 

2022年10月24日。この日の僕は

仕事が休みだったため、一人で妻の面会

に行きました。約束していたハロウィン

の絵を持って。

僕は学生時代は絵を描くのが好きで、漫

研を手伝ったり、スポーツ誌のイラスト

や一コマ漫画、ヤングジャンプに 4コマ

漫画が掲載されたこともあります。だか

ら時々妻に絵を描いてと頼まれ、漫画や

イラストを描いていました。

 

描いた簡単なイラストを見た妻は、とて

も嬉しそうにして、どこにどの色を塗ろ

うかと話しかけてくる。僕も雰囲気を考

えて、あれこれと答えていく。

そして翌日の午後に妻から電話があり

「もうほとんど色を塗ったよ。あとはフ

ランケンの頭のネジだけ。これは灰色で

いいかな」

「もう塗り終わるから、別なのも描いて

持ってきて。今度は秋らしいのがいい。

どんぐりとか紅葉とか」

 

 

元気になってきた妻の声が嬉しくて、す

ぐにイラストを描いて、10月26日の

仕事終わりの夕方に面会に行きました。

ニコニコしながら話しかける僕を見て妻

は何故か下を向いている。

 

そして・・・

「今日は帰らないでほしい」と言った。

 

ハロウィンの絵を描いて(本日妻が亡くなりました㊸/㊿))

 

2023年8月26日 僕と長女と次男、

そして僕の弟と一緒に、長男の住む宇

都宮に、孫の顔を見に行きました。

 

長男の家に着く前に立ち寄ったのは、

「大谷資料館」。ここは住宅なんかの

擁壁や化粧石に使われていた 大谷石

掘り出していた場所です。掘削された

地下は、まるで異世界の迷宮のよう。

この真夏の暑さの中でも涼しく、空間

の中は13度しかありません。

ここも妻と一緒に来たことがある旅行

先。妻を偲んで、ということです。


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①大谷資料館前の自販機(大谷石のシート貼り)

②大谷資料館  ③大谷寺  ④平和観音

 

妻が亡くなってから、そうすぐ一年が経

ちます。

何度も思い出す大変だったときの記憶。

それが細かく、そしてますます具体的に

よみがえってくる。だからこのブログと

向き合うのがキツくなり、書く気になれ

ない。そして一日一日と書くことから逃

げているうちに、一ヶ月近くが過ぎてし

まいました。

 

2022年10月23日の家族面会。

一度に 15分。2人まででなので、まず

は長男と長女が面会しました。

今まで大きくと違うのは病室です。入院

したときは無菌室の 4人部屋。だから病

室に入ることはできませんでした。そし

て移植のときは完全な無菌室。廊下に面

した壁一面のガラス越しの面会。当然中

に入ることなんかはできません。

でも今回はナースステーション前の個室

です。病気がほぼ治ったために、無菌室

ではありません。だから病室に入って直

接話せるし触れられる。

このことは、本当に本当に力に変わる。

妻の顔色や態度、話し方が全然違ってき

て、どんどん元気になっていきました。

15分の制限なのに、長男と長女は 40

分。僕と次男は 30分以上も話してしま

い、看護師さんに注意される程でした。

 

 

面会の帰り際に妻から

「気分がいいから、大人の塗り絵をやっ

てたら全部終わっちゃった」

「お父さん、なにか絵を書いて。それに

私が色を塗りたいの。そうだ、今の時季

だから、ハロウィンの絵がいいな」

 

最後の家族面会(本日妻が亡くなりました㊷/㊿))

 

2023年8月13日、妻の弟さんの家

で新盆を迎えました。

わずか 5ヶ月の間に別々の病気で亡くな

ってしまった二人。弟さんの葬儀のとき

のお坊さんに来ていただいて、同じ場所

で一緒にお経をあげてもらいました。リ

ビングに二人の位牌と遺影、そして精霊

馬、花や果物を供え、弟さんの妻・義父

母・義兄と僕だけで静かに行いました。


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ちりめんの精霊馬

 

2022年10月17日の面会終わり、担当の

看護師さんに、妻とどんなことを話した

のかと状況の説明をしました。そしてそ

の結果、病院の治療と支援だけより、や

はり家族のサポートがあったほうがいい

んじゃないかということになり、看護師

長さんから許可をもらい、一般病棟に移

ってからも特別に面会を許可していただ

けることになりました。

ただし親、妻の兄弟、僕と子供たちだけ

で、一度に病室に入れるのは 2人まで。

そして面会時間は 15分以内です。かな

り厳しいような気もしますが、当時はま

だまだコロナ禍。病院では面会を、緊急

時以外は一切認めていませんでした。だ

からかなり特別なことだったんです。

 

妻の状態が心配になった僕は、妻の兄弟

と僕たちの子供に LINEで連絡を入れた。

「お母さんの気持ちが不安定になってい

るから、みんなでお見舞いに来て」

「いつとかじゃなくて、今週末に必ず。

絶対に時間をつくってください」

 

妻の両親は高齢で、新型コロナウイルス

が心配なので、面会に来ることができま

せん。そして妻のお兄さんは週末は都合

がつかず、翌週末に面会に来ることにな

りました。また、妻の弟さんは何故か当

面来れないとのことでした。

 

 

妻が一般病棟に移った翌日の 2022年

10月19日、心配だった僕と長女は、

先に面会に出かけた。

今までの無菌室と違い、直接触れ合えた

ことは大きく、妻は長女と抱き合って泣

いて、声を震わせ喜んでいました。

 

そして 10月23日、僕と子供たちが全

員揃って面会することができた。

でも、この日が家族が揃った最後の日に

なりました。

 

幸せな時間(10月17日・後編(本日妻が亡くなりました㊶/㊿))

※この記事は、どうしても先に書きたかっ

たため、2023年1月9日に書いたもの

です。それを加筆修正しました。

 

 

2023年8月5日 僕の車で弟と一緒に

「たんばらラベンダーパーク」と「伊香保

温泉」に行ってきました。

妻と行きたかった旅先は、まだ 50ヶ所以

上あります。今はその場所を一つ一つ、妻

の写真が入ったキーホルダーと一緒に出か

けている。今回もそういった場所でした。


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①②たんばらラベンダーパーク  ③④伊香保温泉 

⑤大澤屋さんの水沢うどん ⑥榛名湖

 

電話が分からなくなった妻の声を聞きつけ

た看護師さんが来て、電話器を妻に渡して

くれた。また、精神面をケアする担当医を

呼んで、妻をサポートしてくれました。

 

妻はリハビリの時間になったのですが、そ

の間に僕が帰ってしまうのを心配して、行

くのを嫌がりました。

そこで看護師さんがこう言ってくれました

「今日はご主人の時間が許す限り面会して

いいですよ」

 

妻が

「リハビリから戻るまでいてくれる?」

「待ってるよ」と答える僕

僕は 1時間少し病院の最上階の展望室で、

横浜の景色をぼんやりと眺めて、時間を

潰しました。

 

病室に戻りリハビリの終わった妻と話して

いたところ、17時過ぎに妻がうとうとし

始めた。夜はまったく眠れなくなっていた

んですが、僕が面会に来ると安心して、

眠そうになったりする。

 

「寝たほうがいいよ」と僕が言うと、妻

は駄々をこねる。そう、この時間はもう

一人の妻。子どもに返った妻です。

でもあまりに眠そうだったので、もう一

度「寝たほうがいいよ」と言うと妻は、

「だって寝たら帰っちゃうんでしょ?」

そう言って寝ようとしない。瞼がくっつ

きそうなのに。

妻もさすがに起きているのは無理だと思

ったのか「じゃあ、子守歌を歌って」と

ねだってきます。無菌室前の廊下は誰も

いません。しかしさすがに恥ずかしい。

僕が困った顔をしていると、「だったら

100数えて。そしたら許してあげる」

 

僕は少し小さな声で

「いいち、にいい、さあん」と数え始め

たら、「だめだよ、だめ。それじゃ早す

ぎて眠れない」

「ああゴメン。最初から行くね。いいい

いち、にいいいい、さあああん・・・」

 

たった 8まで数えたところで妻は眠った

みたいです。内線電話ごしに寝息が聞こ

えてきました。僕のほうを向いたまま子

供のような寝顔をしてる。

もう眠っていましたが、ちゃんと約束通

りにゆっくりと 100まで数えました。

間接的に夕陽が射し込んでくる。そんな

中で妻を見つめていた幸せな時間。

 

 

(明日一般病棟に移ったら、あと 2週間

ぐらいで退院できるから頑張ろう)と心

の中で話しかけました。

僕は知らなかった。妻の命が尽きるまで

あと9日と13時間だということを。

 

茶碗の電話、シーツの電話(10月17日・中編(本日妻が亡くなりました㊵/㊿))

 

2023年7月14日から 4日間、実家

の青森に帰省する予定でした。久しぶり

にゆっくりしたかった。でも直前に僕が

体調を崩してしまったために行けなくな

ってしまいました。

そのことを長男に LINEすると

「俺が代わりに行ってくる。家族で」と

いう電話。

子供のときから青森の実家が大好きな長

男は、お祖母ちゃんと叔父さんが寂しが

らないようにと、すぐ有給休暇の申請を

したそうです。


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(青森の)奥入瀬渓流  金魚ねぶた  遮光土偶

 

「お父さん・・・お父さん・・・。ごめ

んね、わたし死のうと思うんだ」

突然の妻の言葉に、僕は激しく動揺した

んですが、それを顔や態度に出さないよ

うに必死に、言葉を抑えながらゆっくり

と話しかけました。

「眠れなかったの。今日は心配な気持ち

が大きくなったのかな」

 

「ううん、だってね。わたしはもう何年

も入院しているじゃない。そして病気・

・・、あれっ、何の病気だっけ・・・」

「うん、いいや。そしてね、病気も全然

治らないし、家に帰れたとしてもみんな

に迷惑をかけるし・・・」

 

このときは妻が入院してから 6ヶ月弱。

精神的な負担が大きすぎて、入院してい

る期間、病名すら忘れてしまっている。

 

入院期間と病名、そして病気が治ってい

て、明日一般病棟に移れることを伝えま

した。

驚いたような不思議な話を聞いたような

顔で僕を見つめる妻。

 

「そうなんだ。治ったんだ。忘れちゃっ

たみたい」

「忘れないようにメモするから、もう一

回教えて」と安どの表情を浮かべる。

 

目の前にある A3の紙に妻が書きこもう

としました。でもそれは、検査結果や治

療について書いてある紙です。

紙があるのは分かるのですが、何か書い

てあるのか白紙なのかは見えていない。

そのために紙を 1枚ずつめくって、メモ

できるかを一緒に確認していきました。

 

そのときに、一度置いた内線電話の子機

を持とうとしたら、妻はまた分からなく

なってしまいました。

ベッドの上のテーブルに置かれた子機。

そして時々間違えるテレビのリモコン。

その二つをじっと見ても分からない。迷

いに迷って・・・・・。

 

食事が終わっていたお茶碗を持ち、耳に

当てました。

「もしもし。もしもしお父さん」

「あれっ、聞こえない、なんで?」

 

「それは違うよ」とゆっくり話す僕。

 

お茶碗を置いた妻は周りを見渡しました

が、ほとんど見えていないようでした。

そして自分が座っているベッドのシーツ

をじっと見て、その一部をつまみ上げ、

クルクルと巻いて筒状にして話しかけて

きました。

「なんでこの電話は持てないの?ベッド

にくっついている」

「もしもし、もしもしお父さん。お父さ

んの声が聞こえないよ。聞こえない!」

 

ごめんね、わたし・・・(10月17日・前編(本日妻が亡くなりました㊴/㊿))

 

1ヶ月半ほど前に「お仏壇の長谷川」さ

んで、お盆に供える小さなセットを買い

ました。ちりめんで作られたホウズキと

精霊馬、提灯や迎え火・送り火の木を模

したロウソクが入ったものです。

精霊馬は、キュウリとナスに割りばしや

爪楊枝を刺し、盆棚や仏壇に飾るもの。

キュウリを馬、ナスを牛に見立て、亡く

なった人がお盆の時期に戻ってくるとき

に、馬に乗って少しでも早く家に帰れる

ように、お盆が終わって家から離れると

きには、牛に乗って少しでもゆっくりと

という意味がこめられてる。

そして提灯と迎え火は、帰ってくる人が

迷わないようにするための灯りです。

僕たちは初めて家で迎えるお盆なので、

何を揃えるのかも分かりませんでした。

妻が亡くなって初めて迎えるお盆。初盆

です。

初盆のときに灯すのは白い提灯。翌年以

降は絵柄入りや色付きの提灯を用意しま

す。こんなことも初めて知りました。


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妻は移植がうまくいってから、食事やリ

ハビリだけでなく、精神的にも安定する

ことが多くなってきました。

会話も少しずつですが戻ってきて、こち

らが話すのを、すぐに理解できることも

多くなってきた。

特にリハビリでの歩行は、点滴スタンド

に摑まりながらですが、50m、100

m、200mと、順調すぎるぐらいに歩

ける距離が増えていき、妻からの連絡が

間違っているんじゃないかと思ったぐら

いでした。

 

そして、担当の H先生から、10月18日

に血液内科の一般病棟に移れるという話を

いただきました。今度の病室は入院したと

きとは違いナースステーション前の個室。

無菌室ではありません。

これを聞いただけでも、病気が良くなった

んだなという強い実感がありました。

 

 

無菌室から退室する前の日の 10月17

日に僕が一人で面会に行くと、担当の看

護師さんが神妙な表情で

「今日は奥様と何を話したか、お帰りの

際に教えてください」と言われた。何が

あったかは教えてくれなかったので、急

いで病室の前に行き、妻に内線電話で話

しかけると、妻は少しためらいながら

 

「ごめんね、わたし死のうと思うの」

 

集中治療室=ICU(本日妻が亡くなりました㊳/㊿)

 

数日前に、浜田省吾さんのツアーチケッ

ト当選のメールがきました。11月11

日の横浜アリーナ初日の S席です。

僕は、浜田さんがデビューしたころから

のファンで 47年も聴き続けている。で

もライブツアーを観に行くのは初めてで

す。なぜなら、あまりに好きすぎて、レ

コードや CD 、DVD、写真集と雑誌記事

なんかで自分の中で完結してしまい、ラ

イブで本人を直接見るのが怖いという変

な感情になってしまっていたからです。

そんな気持ちが変わったのは、今年の 5

月のこと。期間と指定映画館限定で上映

された浜田さんの 35年前のライブ映画

「A PLACE IN THE SUN at 渚園」を観た

から。そこで気づいたのは、浜田さんが

いま 70歳だったということ。

これはもう観ておかないといけない。

 

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浜田省吾さんのHPより

 

移植がうまくいってから、妻は元気にな

っていきました。病院の昼食も、ご飯を

1/5食べた。バナナを半分食べられた。お

かずも 1/3食べた、という連絡が来るよう

になりました。しかもその連絡の LINEは

自分で打ったもの。写真もときどき添付

されている。

面会したときに気づいたのですが、顔色

がいい。頬に赤みが戻ってきました。そ

してリハビリもなんとか頑張って、初日

はほとんど歩けなかったのが、二日めに

は、点滴スタンドに摑まりながら 20歩

だけですが歩くことができた。その次の

日には 40歩。

更に刺激になったものが、リハビリ室。

そこには、自分よりももっと大変な思い

をしている人たちが、必死にリハビリを

していました。だから自分も頑張らない

といけないと思ったようです。

 

 

10月初旬に次男と妻の面会に行ったと

き、閉まりかけたエレベーターの扉に、

あわてて駆け込んできた 50代の男性が

いました。後ろから病院の職員さんが

ICUは 6階。6階!」と大きな声で呼び

かけてきた。

同乗したその男性は汗をかき、目に涙を

浮かべている。

 

ICUって、大変だな。知らない人だけ

ど、無事であればいいな)と思った僕。

でも ICUは、幸せな場所でした。

 

良い報告と一抹の不安(本日妻が亡くなりました㊲/㊿)

 

2023年6月19日、長女と上大岡の

TOHOシネマズさんで映画を観てきまし

た。少し前に公開された映画です。

「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムー

ビー」

 

僕を気づかった長女が、有給休暇を取っ

てくれたんです。

映画は、マリオの世界観をしっかり踏ま

えていて、マリオブラザーズだけではな

く、マリオカートルイージマンション

なんかも織り交ぜたストーリーで描かれ

ていた。マリオに対するリスペクトがあ

ふれ躍動的、本当に楽しい映画でした。


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妻が、一生懸命にご飯を食べようとした

のには理由があります。

抗がん剤放射線治療をして食欲が無く

なったとしても、食べていけないわけで

はありません。食べたくなくなるだけ。

だから少しでも早く食事ができるように

なって、体を元に戻させたい。そのため

に僕は、何も食べようとしない妻に

「ご飯一口だけでもいいから食べよう」

「アイスやお菓子なら食べられる?」と

聞くようになっていました。

それが妻には、プレッシャーになってい

たのかもしれない。

 

特にこのころ、2022年9月中旬の妻

は、体調が悪いだけではなく、トイレの

感覚が鈍くなっていたのと、体力の落ち

方がひどく、スマホを持っていることや

数歩すら歩くのが難しくなってました。

だから妻は(家に帰りたい)という強い

思いとは裏腹に、(家に帰っても何もで

きないで寝ているだけかもしれない。何

の役にも立たなくなった自分が、家に帰

ってもいいのか)という、自分を責める

ネガティブ感情が強く交差していた。

「何もしなくていい。いるだけでいい」

何度そう話しても、申し訳なさそうにし

てうつ向いてしまう。

そういった感情から遠ざけるためにも、

妻が好きなお菓子や食事を勧めていたの

ですが、伝わっていないようでした。

 

 

2022年9月28日、妻の白血球と赤

血球の数値が戻りました。最低限必要な

数ではなく、健康な人と変わらないぐら

いの数まで。

やっと、やっと寛解した。

ただこの時あまり気にならなかったので

すが、血小板だけが少ないままでした。

 

「生きるためのヒント」だった(本日妻が亡くなりました㊱/㊿)

 

もと広島カープのエースだった北別府さん

が亡くなりました。プロでは 213勝を上

げた偉大な投手で、そのコントロールの良

さから「精密機械」と呼ばれていた。

北別府さんは、2020年1月に「成人 T

細胞白血病(ATL)」を発症していました。

息子さんをドナーとする骨髄移植を受けま

したが、その後も様々な病気を患って入退

院を繰り返し、最後は移植の後遺症が原因

となりました。

65歳で逝くのは、まだ早すぎます。

 

生前の北別府さんはこういったことを話し

ていた。

「無菌室の間はキツかった。1ヶ月が、2

ヶ月にも 3ヶ月にも感じた」

「野球の練習はすごくキツくて、こんな大

変なものはないと思っていたけど、無菌室

は比べ物にならないぐらい大変だった」

 

妻はこの時点で、無菌室生活は 2ヶ月間を

超えていました。そして最終的には無菌室

に、3ヶ月と7日間入院していました。

北別府さんの言葉通りだとすると、妻には

無菌室生活は、1年かそれ以上にも感じた

のかもしれません。

だったら、平常心でいるのは絶対に無理な

ことです。

 

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現役時代の北別府投手

 

2022年は、妻と結婚してから 30年め

でした。

あまり無いことかもしれませんが、僕と妻

はケンカをしたことがありません。強い言

葉を使ったり、怒ったこともほぼない。

だから妻がこんな感じで一点を見つめなが

ら、やっと一口にも満たないご飯を食べ

「食べないとお父さんに怒られちゃう」

また 10粒程度をやっと口に運び

「食べないとお父さんに怒られちゃう」と

繰り返すのが理解できませんでした。

 

 

内線電話で僕が

「怒ったりしてないから、無理しないで」

と言っているのを聞きつけた看護師さんが

「お父さんは怒ったりしてないよ」と声を

かけてくれたにもかかわらず

「食べないとお父さんに怒られちゃう」と

一点を見つめたまま、また数粒だけのご飯

を口に運ぶ。

 

なにか、何も見えないで、何も聞こえてい

ないようなこの出来ごとが、実は「生きる

ためのヒントの一つ」だったのですが、こ

の時の僕には分かりませんでした。

 

お父さんに怒られちゃう(本日妻が亡くなりました㉟/㊿)

 

上高地での大正池から河童橋までのハイ

キングでは、以前妻と来た時のことを子

供たちに聞かれたので、一つ一つ思い出

しながら話して歩きました。

最初にバスを降りた妻が、大正池の中の

枯れた立木越しに見えた穂高岳を見て、

その雄大さに、しばらく見とれていたこ

と。田代橋そばの案内板の椅子に腰かけ

てお菓子を食べていたことや、河童橋

交わした会話なんか。

 

6月10日は、高山駅近くのホテルに泊

まって、食事の後に温泉に入ったり、マ

ッサージを頼んだりしながら、夜遅くま

で妻の思い出をみんなで話しました。本

当に一緒に来たかった。連れてきたかっ

たんです。


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飛騨高山


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白川郷

 

妻が無菌室に入院していたときは、まだ

コロナ禍だったので、一般病棟は面会が

禁止されていました。ただし無菌室は、

面会用の通路が隔離されていることと、

無菌室とは厚いガラスで仕切られて、感

染の可能性が無いために面会が許されて

いた。

 

僕が無菌室用の内線電話で妻に話しかけ

ている途中で、妻はハッと気づいたよう

な夢からさめたような顔して

「私はいま、お父さんと何を話していた

んだっけ?」

幸いなことに、さっきまでの別な人格は

どこかに消えて、許しを懇願したことも

覚えていないようでした。

「今日の体調とか、ご飯のことだよ」と

僕が答えると

「そうだ、ご飯を食べなくちゃ」とベッ

ドに付いている移動式のテーブルを自分

のほうに引き寄せて、テーブルの上のト

レイのお茶碗と箸を手にした。

 

この時点で、無菌室に入院してから、も

う 2ヶ月以上経っています。そしてその

間はほとんど何も食べていません。抗が

ん剤や放射線のせいで食欲が無くなった

ままです。1日に 500mlのペットボト

ルの水 1本飲む以外は、ほぼ点滴だけ。

でも、そろそろ食べられるはずなので、

この日から食事を出してもらいました。

 

 

本当は食欲が無くて食べたくない妻は、

お箸の先にお米をほんの 10粒ぐらいだ

けつまんで、やっと口に入れた。

どこか遠くの一点をじっと見つめて

「食べないとお父さんに怒られちゃう」

 

懇願の理由(本日妻が亡くなりました㉞)

 

2023年6月10日の土曜日から翌日

にかけて、1泊2日で、上高地~飛騨高

山~白川郷に行ってきました。HISさんの

バスツアーです。

今回も僕と長女、次男、僕の弟の 4人。

僕以外は初めてのバスツアーへの参加。

コース自体が良かった他に、バスがゆっ

たりタイプでストレスが少なかった。そ

して運転手さんが気さくなベテラン。ま

た、行先の知識が本当に豊かで、今まで

お世話になった運転手さんの中でも、最

もレベルの高い方でした。他には、ホテ

ルと食事が良かった。こちらも、これま

での中で一番でした。

 

上高地は、妻と行った初めての旅行先。

もう 30年以上も前のことでしたが、妻

が何度も何度も「すごく楽しかった」と

言っているのを聞かされていた子供たち

が、同じ所に行ってみたいと言ってくれ

た。そして本当なら、まだ行っていなか

った飛騨高山と白川郷に、今年の夏には

妻と行くつもりだった。


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上高地大正池河童橋穂高岳

 

人は辛いことがありすぎると、こんなの

は自分じゃない。そう強く思って、心が

自分の人格と切り離されてしまうことが

あるそうです。

別の人格が現れてしまうことがある。

 

妻の場合がそうなのかは分かりません。

担当の H医師からも、そう言われた訳で

もありません。でも、妻に時々出てくる

子供のような人格は明らかにおかしい。

この人格は、子供たちが面会に来たとき

には出ません。かなり精神状態が悪い日

や時間帯で、僕が一人で面会に行った時

にしか現れませんでした。

 

 

僕に向かって「私を許してください」と

話した妻の声は、次第に幼い声に変わっ

ていきました。前にも現れた他の妻。別

な人格のように感じてしまう。

 

「大丈夫だよ。誰も怒ってないよ」と静

かに僕が話しかけると、妻は不思議そう

な顔をしました。

「だって私はきっと悪いことをして、罰

を受けているんだ」と話し、そのことを

許してほしいと思ったようです。

妻はこの無菌室から出られないことのス

トレスから、自分をどんどん追いつめて

しまって、自分を責め続けているようで

した。

 

許して、私を許して(本日妻が亡くなりました㉝)

 

つい最近、岡村孝子さんの記事を読みま

した。岡村さんは、ご存じのようにシン

ガーソングライターです。

「あみん」時代の「待つわ」を聴いてか

らのファンである僕としては、気になっ

てしかたがなかった。新曲が出るとか、

コンサートをやるとかのこともあったの

ですが、何よりもその体調がどうなった

のかを知りたかったんです。

2019年1月に、競泳の 池江瑠花子さ

んが「急性リンパ性白血病」になったの

と同じころ、岡村さんも病気になりまし

た。妻と同じ「急性骨髄性白血病」。岡

村さんは妻とは違い、臍帯血移植で治す

ことができた。入院期間は約 5ヶ月。そ

れでもおそらく無菌室には 1ヶ月半は入

院していたはずです。その間、やはり不

安に襲われた。

(治らないんじゃないか。死んでしまう

んじゃないか)という不安。

でも本当に幸いなことに、寛解。その後

の状態も良いようで、数日前には、神戸

でのコンサートを、たくさんのファンの

前で無事に行うことができました。変わ

らない優しく澄んだ歌声と愛らしいルッ

クス、元気になって本当に良かった。

 

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岡村孝子さん

 

長男の言った「妹と弟」の奨学金を全額

自分が返すという言葉に対し

「そんな金額を払ったら、貯金が無くな

ってしまうよ」と話した僕。

「大丈夫。まだ半分近く残るから」

 

驚く僕がよく聞いてみると、長男は 3人

の学費の大変さを考えて、大学生のころ

からお金を貯めていたそうです。全員の

学費を、自分が払えるようにするのを目

標にしていたとのこと。だからアルバイ

トをたくさんしていた。また、就職して

からもしっかりとお金を貯めて、この時

に備えていました。

 

このことと、孫が生まれることを話した

ときの妻は元気を取り戻し、気持ちが前

向きになっていく。頑張って早く退院す

るという言葉を口にするようにもなって

いきました。

 

 

しかし移植の結果が分かる数日前に、僕

が一人で面会に行くと、妻が無菌室のガ

ラス越しの僕に向かって手を合わせ、

「許して、私を許して下さい」と、涙を

浮かべて拝み始めました。

 

長男の話し(本日妻が亡くなりました㉜)

 

2023年5月28日の日曜日、僕の弟

と一緒に、潮来あやめ祭りに行ってきま

した。

ここも同じように、妻と行く予定だった

場所です。昨年は入院していたので、来

年行きたいねと話していた。

 

でも本当は難しいと思っていました。退

院してからのリハビリは、かなり時間が

かかるから。

生ものが食べられるようになるのは、退

院してから 1年後。だいたいの家族が、

ちょっと高いお寿司を取ってお祝いする

ようです。また、髪の毛が戻ってくるの

は約 1年半後。それでもベリーショート

に戻るのがやっとです。


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鹿島神宮


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潮来あやめ祭りと嫁入り舟


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伊能忠敬の生家と記念館


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香取神宮

 

妻が見たという、夜中の神様らしい方か

らのお告げ。僕にはちょっと信じられま

せんでした。だって夜中には誰も来ない

し勝手に入れない。ただ妻が、髪の毛を

条件にされたとしても「治る」というこ

とを信じてくれるのであれば、それでい

いんです。気持ちが維持できればいい。

 

「髪も戻るし病気も治るよ」と言うと

「あんまり欲張らないほうがいいんだ。

治ればいいんだ」と妻。

 

このとき妻の気持ちを支えていたのは、

もちろん家族です。妻の父母、兄弟、僕

と子供たち。ほとんどの友人と知人には

病気のことを知らせていません。

中でも大きかったのは長男のことです。

妻が病気になる 5ヶ月前に結婚したばか

りの長男には、もう少しで男の子が生ま

れる予定でした。

(早く孫の顔が見たい)

折れそうな、または折れた気持ちを戻す

のは、そのことが本当に大切な役割を果

たしている。

 

そしてもう一つは奨学金のこと。

三人の子供が高校 2年から行っていた塾

と私立大学の学費の合計は 2500万円

近くになっていました。長男の学費は現

金で払いましたが、長女と次男には奨学

金を借りてもらい、僕が支払うことにし

ていた。

 

 

妻が入院する少し前に、長男から電話が

ありました。

「お父さん、妹と弟の奨学金はいくら残

ってるの」

僕が 650万円ぐらいかなと答えると、

長男は

「俺、現金で全部払うよ」と言った。